Travel Notes 9



西ベルリン側から見た壁

 声をかけてきたのはこの宿に泊まっていた日本人、ワタナベさん
だった。

 彼はアイルランドから一旦アイスランドに渡り、そこから戻ると今度は
ノルウェーに渡り、北欧をまわってここ、ベルリンに来たのだという。
 もうベルリンに滞在して1週間だそうだ。

 驚いたことに彼、日本からではなくタイから来てるそうな、旅が終わって
からも日本には帰らずにタイでしばらく過ごすそうだ。

 一体何者なのか、謎の人物である。
ヨーロッパやアジアを旅しているとよくこの手の人物に遭遇する。
 もう何年も日本に帰ってない・・・とか、一体どうなってるんだろ。

 謎の人物ワタナベさんに宿のことや、ベルリンの情報を聞きだすと
ポツダム広場に向かった。ツォー駅のネットカフェまで行くと言う彼と
途中まで一緒、東洋人はおろか黒人すら見かけないこの街で地下鉄
の中の日本人2人は非常に浮いた存在だ。

 夜、飲みましょう、と約束をすると僕はポツダム広場駅でUバーンを降りた。
 

 駅前のカフェでパンとコーヒーを頼むと外のテーブルで遅めの朝食を
とる。パンがすごく美味しい、ドイツはパンが美味いのだろうか。

 軽く食事を済ませると、カフェ沿いの道路を渡る。
実は道路をはさんで反対側にすぐベルリンの壁が見えていたのだ。

 カフェがあるのは旧西ベルリン地区、西側の壁には多数の絵が
書かれている、1989年の崩壊後はほとんどの部分が撤去され
今は残っている部分は少ない。


 ベルリンの壁は、ベルリンの街を東ドイツと西ドイツに分断したもの
であったが、実は東西ドイツの国境ではない。
 これは僕も勘違いをしていたのだが・・・。


 壁ができた経緯を説明すると、第二次大戦後のドイツはアメリカ、
イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割占領されていた。

 旧東ドイツ内にあった首都であるベルリンもこの4カ国によって分割
占領され、街の東側をソ連、その他の地域を分割する形で残り3カ国
が統治していた。
 その後、東ベルリン地区ではソ連による社会主義的統治が行われ
始めた為、西側諸国の自由な労働環境を求め、東ドイツ市民が西側
に移るケースが増え始めてきた。
 冷戦時代に突入し、東西陣営の関係悪化が決定的なものになると、
労働力の流出を恐れた東ドイツによって西ベルリン取り囲む形で壁が
建てられた・・・というわけです。

 つまり、ベルリンは東西ドイツ国境の町ではなく、西ベルリンは
東ドイツ側の中にある西側の町、すなわち陸の孤島だったわけで、
壁は西ベルリンをぐるりと一周取り囲む形で建てられていた、というわけ。

 すっかり、ベルリンは国境の町だと思い込んでいた。
学校ではこんなこと習わなかったぞ、オイ。

 壁を越え東ベルリン側に入ると亡命者を監視していた監視塔が
見えた。今は使われていないその監視塔の窓を覗くとガラスにこう
書いてあった。


         


 コイツは傑作だ、旧東ドイツのかつては自由を求める人々を監視
してきた、その塔にアメリカを、ブッシュを皮肉るこの落書き。
 もう冷戦は終わったんだ、悲劇の象徴である壁はこうして取り払われ
過ちを2度と繰り返さんとしているのに、自由への壁が残っているのは
アメリカのほうではないのですか?


国境警備隊?

壁が無くなったあとも壁に沿って溝が掘られ悲劇を風化させないようにしている。

壁を越えひと気のない東側に入ると背後からパトカーが走ってきた。

 そして驚くことに僕の目の前で停まるではないか。

何だ?もう壁は越えてもいいんだろ、え、ダメなの?
 周りには誰も居ない、僕だけだ、パトカーは目の前で止まり、中に
いた警官が僕を一瞥する、時間にして約15秒。
 車は何事も無かったかのように、Uターンして帰って行った。

 何だったんだろ、一体、いや、それよりも違うことに感心。
さすがドイツ、パトカーもBMWだ・・・。

 これ以上先に進むと国境警備隊に逮捕されそうなので(んなわきゃない。)
というかこの先、行き止まりだったので駅のほうへ引き返した。

 駅前ではソーセージ売りのおじさんが立っていた。
なんと、そのおじさんアウトドア用のホットプレートを肩からぶら下げ
ソーセージをその場で焼いているではないか。

 ドイツといえばビールとソーセージ、そういえばまだ、どちらも口に
していない。
 おじさんに一つ頼む、風が強いためかなかなか焼けない。
風が強くてなかなか焼けないんだよ〜と言う素振りを見せおじさんは
丁寧にソーセージを焼いてくれた。
 カリカリのパンにはさみソースとマスタードマヨネーズをかけると
ハイ、出来上がり、値段は1.5ユーロ約200円ってところだ。

 美味い!!最高に美味い!!ビールがないのが痛いとこだが
正直こんなに美味いとは思わなかった、さすがは本場って感じだ。

 駅前でソーセージを食べながら朝ゲットした英語の地図を見て
どこに向かうか考える。
 今回着けてった腕時計SUUNTOのコンパス機能はとても重宝した。
初めての街で地図を見るとき、方位がわかると位置関係が掴みやすい。
 このまま壁沿いに歩いて行けばブランデンブルク門だ、そこから
門を通りウンター・デン・リンデン通りを東に歩けばベルリン大聖堂
テレビ塔を通って宿の近くのアレキサンダー広場駅に一筆書きで
繋がる、そこで一旦宿に戻ろう。

 ルートが決まるとソーセージを食べきり壁に沿って歩きだした。
かつての壁のあとは壁が撤去された跡に溝を掘って悲劇を風化
させまいとしてあった。

めずらしくシリアスに考える

ブランデンブルク門、かつては近づくことすら許されなかった。

 ポツダム広場から500mほど行ったところにブランデンブルク門は
あった。かつては近づくことすら許されなかったこの門も今では立派な
観光名所。

 門を通りウンター・デン・リンデン通りを東に歩く。
途中のフンボルト大学では古本市をやっていたが読めるわけもないの
で冷やかすだけで通過。

その他多数の博物館も何の博物館かわからないうえに有料なので
もちろん通過。


しばらくすると国立中央追悼所ノイエ・ヴァッヘが現れる。
1818年製の建物で第二次大戦後、追悼所となった建物だ。
(無料なので)入る。


中には『死んだ息子を抱く母』の像がぽつんと置かれていた。
それ以外には何もない。
入り口の碑文にはこう書いてあった。

死んだ息子を抱く母

 「戦争と暴力支配の犠牲者に」

ノイエ・ヴァッヘは
戦争と暴力支配の
犠牲者を追悼し
記念する場所である。

我々は追悼する、
戦争によって苦しんだ諸国民を。
迫害され、命を失った
その市民たちを。
世界戦争の戦没兵士たちを。
戦争と戦争の結果によって
故郷において、また捕虜となって、
そして追放の際に命を落とした罪なき人々を。

我々は追悼する、
幾百万の殺害されたユダヤ人たちを。
殺害されたシンティとロマの人々を。
血統や同性愛の故にあるいは病気や
身体の弱さの故に殺されたすべての人々を。
我々は追悼する、
生きる権利を否定されて
殺害されたすべての人々を。

我々は追悼する、
宗教的或いは政治的な信念のために
死ななければならなかった人間達を。
暴力支配の犠牲となり
罪なく死を
迎えなければならなかった人々を。

我々は追悼する、
暴力支配に対して抵抗し
その命を犠牲にした
女たちや男たちを。
我々は称える、
良心を曲げるよりはむしろ
死を受け入れたすべての人々を。

我々は追悼する、
一九四五年の後に
全体主義的独裁に反抗し
迫害され、そして殺害された
女たちや男たちを。

 
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どこの国が侵略しただの謝罪せいだの、その事実はなかっただの
言う暇あったら、まずその犠牲者を慰霊せいっつの。


責任なすり付け合わないで死んだ息子を抱く母がその双方に
いることを、その悲劇を皆で悲しみなさい。


めずらしくそんなシリアスなことを考え鼻息荒くフンフン歩いていると
巨大な建築物、ベルリン大聖堂が見えてきた。


ベルリン大聖堂 右端に見えるのが東ドイツのランドマーク的存在テレビ塔





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